平成28年11月29日(火)~平成29年1月15日(日)
企画展「招福 吉祥のかたち」を見ました。
一番好きだったのが、奥原晴湖の「富貴飛燕、芙蓉翡翠」明治28年 茨城県近代美術館蔵。
この企画展に奥原晴湖があるとは知らずに入ったのですが、たまたま少し前に晴湖についての文献を目にしていました。茨城県の小学生が授業で使用する『輝く茨城の先人たち』【発行元 茨城県生活環境部生活文化課】に載っていたもの。
茨城県古河藩大番頭の娘で『明治時代に活躍した女流画家』。一番印象に残ったのは彼女の強烈な個性。
“晴湖は「女だてらに…。」とか「女だから…。」という考え方が大きらいでした。そして筋の通らないことには相手がどんなに大人物であっても、ガンとして応じなかったといわれています。明治4年に「断髪令」がでて、男性が髪を切り、ザンギリ頭になったことに対して、晴湖もまた黒髪をバッサリと断ち切り、ザンギリ頭になります。それ以降の晴湖は、一生ザンギリ頭で通し、身なりも男のような格好をしていました。
明治5年のことです。皇后陛下のお召しにより、御前揮毫(皇后の前で作品を書くこと)をすることになりました。一礼をした晴湖は、ゆうゆうと筆を動かし、見事な梅の図を描きあげたといわれています。”
この文章と、ちょっとむっつりとした様子の顔写真を見ていたので、「どんな絵を描く人なんだろう」と思っていました。
そして思いがけず見ることができた「富貴飛燕、芙蓉翡翠」(明治28年)。
第一印象は「あったかい」!
日本画(晴湖は『南画』だそうですが)というと、静謐で冷たくて無音、静止した絵というイメージがあり、実際、晴湖の周りに並んでいる日本画たちは、張り詰めた空気と静けさを感じさせていました。
なのに、晴湖の絵と詩(画賛と呼ばれる漢詩)を見ていると、南のぽかぽかとした暖かい陽気を感じて、鳥たちの囀りが聞こえるようで、とにかく体感温度が高い。
詩の内容もいい。
『富貴飛燕』(左側)花柳満江南 江村暖靄含 茅堂新燕子 終日話喃ヽ
「春の花が咲き新しい燕の夫婦が一日中おしゃべりをしています」(こちらから引用)富貴とは牡丹のこと。燕の鳴き声は、暖かな春靄がかかった村の中に聴覚を刺激するものとして登場しており、画賛の中でも印象深い。(こちらから引用)
『芙蓉翡翠』(右側)十里豈辞遠 芙蓉紅映池 村荘聯幾榻 秋半正佳時
芙蓉と翡翠(かわせみ)。「十里も離れた土地に、秋の花芙蓉が咲いたと聞いたので、遠いのも苦にせずに見に行きましょう」
南画は、中国の文人たちが描いた文人画を継承していて、文人=支配層です。余裕のある暮らしの中で、毎日風流な物事にアンテナを張っていたんだろうなあ。そんな南画家の晴湖の作品からは、陽だまりのぽかぽかした心地良さが伝わってきます。
ただ、この記事のためにいろいろ調べていたら、若い時は売れっ子だった晴湖が、南画批判以降落ち目になり、東京から熊谷へ引っ越してからは画風もガラッと変わったと知りました。今回見た「富貴飛燕、芙蓉翡翠」は引っ越した後の作品(59歳)です。でも、辛酸をなめた人の絵とは思えません。むしろ、売れっ子だった時は門下生300人で忙しすぎたんじゃないかな。その頃の作品はネットで検索して見ただけですが、『粗野』と評されていました。現在の晴湖は評価も低く、作品によるのでしょうが、安い値がついているようです。
小学生に配られる『輝く茨城の先人たち』には、南画が落ち目になった以降のことには触れられていません。「輝く先人」が落ち目になった後、すばらしい作品を描いたことを知って、私はますます晴湖が好きになりました。子供たちにも伝えたい。
ザンギリ頭で「男性に交じって堂々と生きた晴湖は、明治の美術界の女傑といわれるのにふさわしい」。そういうイメージで捉えられてきた女性が、とってもあったかくてぽかぽかしてくる絵を描く方だとわかりました。